不思議帖

怪異と謎のアーカイブ

長崎街道不思議帖

公開 2026年9月30日

歯痛観音 — 頬に手を当てた仏と、馬川の水

頬に手を当てる半跏思惟の仏を「歯痛をこらえる姿」と見立てた峠道の信仰と、人馬が足を冷やした馬川の由来

怖さ

日見峠へ向かう旧街道の途中、崖に張りつくように小さなお堂がある。木札に「長崎四国 第六番霊場 岩這薬師堂」とあり、蟇股には緑の彩色が残っている。堂内をのぞくと、岩窟に腰を下ろした仏が、右手を頬に当てていた。

岩這薬師堂の歯痛観音。岩窟の中で右手を頬に当てている
岩這薬師堂の歯痛観音。岩窟の中で右手を頬に当てている
蓮華座に座り、片脚を組み、彩色の名残がわずかに見える。堂の前に立つと、仏と目が合うより先に、その手の位置に目がいく。 長崎街道は長崎と小倉を57里で結び、この峠はその長崎側最初の難所だった。「西の箱根」と呼ばれた坂の下に、この堂はある。一の瀬口から峠までは歩いておよそ1時間。堂はその道のりの途中に立ち、ここから先で本格的な登りが始まる。 土地の人はこの仏を歯痛観音と呼ぶ。現地の案内板「長崎街道 歯痛観音(岩這薬師堂)」は、すでに文字が薄れて読みにくい。板の前に立って拾い読みすると、およそこう説明している。観音は片手を頬にあて、遠い未来に思いをはせ、何かを待ちながら瞑想している。その姿が歯の痛みをこらえているように見えるため、願をかけると歯痛が治ると信じられた。 堂の名は薬師堂、本尊は観音、通り名は歯痛観音。三つの名が一つの堂に重なっている。長崎四国八十八ヶ所は、四国まで行けない人のために市内の寺や堂を88か所選んで巡る霊場で、大正期に始まったとされる。その第6番がここに当たる。四国の第6番札所が薬師如来を本尊とするため、堂の名も薬師堂を名乗ったものらしい。 お堂の横の崖には、掘り込んだ横穴に地蔵菩薩が祀られている。赤い前掛けをかけた地蔵の前に短い石段があり、堂前には角柱と自然石の碑が二基並ぶ。角柱には奉納の文字と、大師の名らしい刻字がある。八十八ヶ所の霊場であれば弘法大師にちなむものだろうが、刻字が薄く、それ以上は読めない。崖下のもう一つの自然石には「嘉永」と「石工」らしい字が見える。嘉永なら幕末、1848年から1854年のあいだになる。だが年号は嘉永と読めるというだけで、確定はしない。石工の名も読み取れない。 つまりこの堂には、はっきり分かることが少ない。いつ建ったのか、誰が仏を刻んだのか、案内板も碑も答えてくれない。分かっているのは、峠道の旅人がここで歯の痛みを預けたということだけである。 案内板は、もう一つの名の由来を記している。付近を流れる馬川である。この川には常に水があり、旅人も馬もここで流れに足をつけて一服し、力を入れ直してから日見峠の急坂に向かった。人と馬が川で足を冷やしたから馬川。旅人にとって欠かせない川だったと案内板は書く。 お堂の近くには、岩をくり抜いた四角い水溜めがあり、湧水が静かに溜まっている。
薬師堂のそば、岩をくり抜いた水溜めに湧き水が溜まる
薬師堂のそば、岩をくり抜いた水溜めに湧き水が溜まる
人の手で角を整えたもので、自然の窪みではない。馬川の水場の跡なのか、堂の手水の跡なのか、それを示す記録はない。ただ、水があることだけは今も変わっていない。 江戸の旅人はこの先で急坂に取りつき、峠の関所を抜けて長崎へ下った。江戸期の長崎の関門は日見峠の関所であり、この堂はその関所の手前にある。長崎へ入る者は足を冷やして坂に備え、長崎を出る者は峠を下ってきた疲れをここで抜いた。歯の痛みを抱えた者は、頬に手を当てる仏の前で手を合わせた。それぞれが、この小さな堂の前で立ち止まった。 仏は今も頬に手を当て、何かを待っている。

出どころ長崎市が設置した現地案内板「長崎街道 歯痛観音(岩這薬師堂)」に拠った。案内板は劣化が進み、一部は判読しにくい。堂が長崎四国八十八ケ所の第6番霊場であることは、堂の木札と案内板による。堂内の観音像、崖の横穴の地蔵、堂前の石碑二基、崖下の自然石の刻字、岩をくり抜いた水溜めは、運営者が2026年8月に現地で撮影し確認した。「嘉永」の刻字は読みの候補であり確定していない。水溜めが馬川の水場か手水の跡かも確定しない。日見峠の全体像と徒歩所要時間は、一の瀬口の「旧長崎街道の図」(長崎平和ライオンズクラブ制作 平成3年・平成9年改修)による。
考察片手を頬に当て、片脚を組んで思索にふける。この姿は、仏教美術では半跏思惟像と呼ばれる形である。この形の像の多くは弥勒菩薩として造られた。案内板がいう「遠い未来に思いをはせ、何かを待つ」という説明は、遠い未来に世に下って人々を救うとされる弥勒の性格そのものである。案内板はこの像を観音と呼ぶが、形の上では弥勒の型を踏んでいる。 ならばなぜ、この仏は歯痛の仏になったのか。答えは案内板が自分で書いている。頬に手を当てた姿が、歯の痛みをこらえる人に見えたからだ。教義ではなく、見た目である。峠道を行き来する人々は、遠い未来を待つ菩薩の思索を知らなかったか、知っていても気にしなかった。目の前の仏が自分と同じ仕草をしている。それだけで信仰は成り立った。 民間信仰には、こうした「見立て」から生まれたものが多い。石の形が何かに似ている、仏の仕草が何かに似ている。似ていることが、そのまま御利益の根拠になる。教義から下りてくる信仰ではなく、生活の側から上がっていく信仰である。歯痛は江戸の旅人にとって切実だった。医者は遠く、薬は乏しく、痛みを抱えて峠を越えるしかない。頬に手を当てる仏は、その痛みを引き受けてくれる存在に見えたはずだ。長崎四国八十八ヶ所の第6番として、四国の札所にならって薬師堂の名がついたのも、病を治す薬師如来の性格が、歯痛の御利益と自然に重なったからだろう。 もう一つの名、馬川もまた生活の側から名づけられている。常に水がある小さな流れで、人も馬も足を冷やした。峠の手前でひと息入れる場所には、水と、仏と、地蔵がそろっていた。足を冷やし、歯の痛みを預け、道中の無事を地蔵に頼む。この堂の周りは、峠に向かう者のための小さな準備の場だったのだろう。 現地で見た岩のくり抜きの水溜めは、その跡かもしれないし、堂の手水かもしれない。記録がない以上、確定はできない。だが、水が今も溜まっていることは事実である。仏の仕草も、川の水も、それを見た人の側が意味を決めてきた。観音か弥勒かという問いより、ここで誰が何を待ったのかという問いのほうが、この堂には似合う。
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