長崎街道不思議帖
公開 2026年9月30日
一の瀬口 蛍茶屋跡 — 別れの杯と、名前だけが残った電停
文化文政のころ一の瀬橋のたもとに開かれた見送りの茶屋。蛍の名所は消え、地名にもない名が電停にだけ残った
怖さ
路面電車の行先表示に「蛍茶屋」の三文字がある。車庫の前で、行先に「5 蛍茶屋」を掲げた306号が待機していた。長崎電気軌道の蛍茶屋支線の終点で、2号から5号までの系統がここで折り返す。車庫と営業所があり、昭和9年(1934)12月に開業した電停である。だが住所を調べても、蛍茶屋という地名はどこにもない。電停の住所は中川一丁目。茶屋はなく、蛍も飛ばない。名前だけが残っている。
その名の元は、電停から少し先、一の瀬橋のたもとにあった。
一の瀬橋。承応二年に唐通事・陳道隆が私財で架けた石橋文化文政のころ、甲斐田市左衛門という人物がこの地で旅人を送り迎えする茶屋を始めた。屋号は甲斐田屋、別名を流蛍舎ともいう。初代は天保8年(1837)に没しているから、1830年代には確かに営まれていた。幕末から明治の初め、二代目政吉のころが最盛期だった。あたりは蛍の名所で、それで蛍茶屋と呼ばれた。
長崎から矢上へ向かう街道は、ここで市中を離れる。一の瀬口は長崎の出口であり、入口だった。ここから日見峠までは歩いておよそ1時間、日見宿跡まで1時間30分、諫早の永昌宿跡までは7時間。一の瀬口に立つ「旧長崎街道の図」は、そう記している。長崎と小倉を結ぶ57里の街道は、この橋から始まった。市中の人々はこの茶屋で宴を張り、旅立つ者を見送って別れの杯を酌み交わした。長崎の俗謡には、せめて一の瀬のあたりまでは送っていこう、という趣旨の一節がある。見送りはここまで。その先は旅人ひとりの道になる。
茶屋の前に架かる一の瀬橋は、承応2年(1653)、唐大通事の陳道隆、日本名を潁川藤左衛門という人が私財を投じて架けた半円形の石橋である。中島川上流の本河内の渓流にかかり、市内では眼鏡橋に次いで古い石橋とされる。江戸期には「市瀬晴嵐」として長崎八景の一つに数えられた。親柱には「ICHINOSEBASHI」のローマ字が刻まれ、明治20年(1887)ごろのものだという。橋のあたりの石畳は清朝時代の江南風の舗装で、橋を渡ると街道が直角に曲がることから、江戸期にはこの一帯を喰違と呼んだ。
現地の案内板には、幕末ごろに撮られたと思われる古写真が添えられている。一の瀬橋と、向かって右側に蛍茶屋。写真の中では橋と茶屋が並んでいる。今、橋は残り、茶屋は「史跡一の瀬口 蛍茶屋跡」の石標と、自然石の碑に変わった。
一の瀬口の「史跡 一の瀬口 蛍茶屋跡」の石標と碑碑の崩し字には「崎陽」「二代目」の字と、新橋町の石工の名が読める。崎陽は長崎の雅称であり、二代目はおそらく最盛期を築いた政吉のことだろう。碑の全文は崩し字で、読み通すことはできない。案内板が遺構として挙げるのは、橋と街道の一部だけである。
茶屋は大正のころまで続き、その後なくなった。文化文政から数えて、およそ百年の商いだった。街道は茶屋の先で左に曲がって峠へ向かうが、その道筋は本河内低部ダムの水の下に沈んでいる。溜池の堤に立つと、街道が曲がっていたはずの方向に、ただ水面が広がっている。溜池の水面の向こうに対岸の森が見えるだけで、街道の続きはたどれない。
2000年に公開された映画『長崎ぶらぶら節』の冒頭で蛍が乱舞する場面は、この蛍茶屋の情景である。蛍と茶屋は映画の中に残り、土地には橋と電停の名が残った。
見送る者が引き返す場所は、名前だけが最後まで残る。
出どころ長崎市が設置した現地案内板「史跡 一の瀬口 蛍茶屋跡」と、長崎市教育委員会が平成16年10月に設置した「市指定史跡 一の瀬口」の案内板に拠った。史跡指定は昭和45年10月7日、所在地は本河内町。案内板には幕末ごろの撮影と思われる一の瀬橋と蛍茶屋の古写真が添えられている。茶屋の屋号と別名、初代の没年、大正期までの存続、俗謡の趣旨、映画の場面については補足調査による。電停の諸元は長崎電気軌道の蛍茶屋停留場に関する公開情報に拠る。一の瀬橋、ローマ字の親柱、石標と自然石の碑、電停の車両、本河内の溜池は、運営者が2026年8月に現地で撮影した。
考察このシリーズで繰り返してきたように、日見峠と一の瀬口は「見送りの装置」だった。奉行は峠で送迎され、去来は芒塚で別れを詠み、市中の人々は蛍茶屋で杯を交わした。装置には順序がある。まず一の瀬口で別れの酒を飲み、橋を渡り、峠で長崎の町を振り返り、峠を越えて見えなくなる。蛍茶屋はその最初の段であり、見送る側にとっては最後の段だった。
なぜここだったのか。地形が答えている。一の瀬橋を渡ると街道は直角に折れ、市中が視界から消える。江戸期の地名「喰違」はその折れ方をそのまま名にしたものだ。市中の側から見れば、橋の向こうで人が角を曲がった瞬間に、その人は旅人になる。見送りを終えるのにこれほど分かりやすい場所はない。茶屋がここに立ったのは、蛍が飛んでいたからだけではないだろう。
蛍という名は、その別れに色をつけた。夏の夜、渓流の上を飛ぶ光を見ながら酒を飲み、翌朝には峠を越えていく。土地の名前には、しばしばこうした情景の記憶が込められる。だが記憶は情景より長く残る。茶屋は大正のころに消え、街道の続きはダムの水に沈み、蛍を見たという話も聞かなくなった。
本河内の溜池。一の瀬口から先の旧街道はこの水の下に沈んだそれでも電停の行先表示には、毎日「蛍茶屋」の文字が掲げられている。
「蛍茶屋」行きの路面電車。名前だけが行き先表示に残る昭和9年に電停を作った人々が、地名にない名をあえて選んだこと自体が、この名の強さを示している。
一つの名前が地名としては存在せず、電停の名としてだけ生きているという状態は、この土地の記憶のあり方をよく表している。役所の帳簿からは消えた。だが人の口からは消えなかった。電車に乗る人は、蛍がいたことも茶屋があったことも知らずに「蛍茶屋行き」に乗る。知らないまま名前を使い続けることで、土地は自分の過去を運んでいる。
古写真の中で橋と茶屋が並び、今は橋だけが残る。橋を架けた陳道隆は唐大通事、つまり唐人と長崎をつなぐ通訳だった。石畳は江南風、橋は半円の石橋。長崎の出口を造ったのが唐人だったというのは、この町らしい話である。長崎を出る旅人は、最初に唐人の橋を渡った。
見送りとは、相手が角を曲がるまで立っていることだ。この土地はその角を、名前として持ち続けている。
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