不思議帖

怪異と謎のアーカイブ

長崎街道不思議帖

公開 2026年9月30日

日見峠 — 日を見る峠、火を見る峠

峠の地名に残る二つの由来。八朔の日拝みと、天正六年の夜に山を埋めた深堀勢の火。案内板は決めない。

怖さ

峠の頂上に、竹の屋根をかけた木の標柱が一本立っている。

峠の頂上に立つ木標「長崎街道 日見峠」
峠の頂上に立つ木標「長崎街道 日見峠」
「長崎街道 日見峠」。それだけの、飾りのない標である。 東を向くと、足元の谷に長崎自動車道の高架が横切り、その向こうに日見の町が見える。西へ下れば本河内、そして長崎の町。江戸のころ、街道を来た旅人が長崎の空をはじめて目にしたのは、この標のあたりだったはずである。 日見(ひみ)。この地名がどこから来たのか、峠の案内板には二つの説が並べて書かれている。 一つは「日を見る峠」である。江戸時代から昭和のはじめまで、毎年旧暦の八月一日、いわゆる八朔の日に、この峠で日の出を拝む習わしがあった。町の人々が暗いうちから坂を登り、東の海から昇る朝日を待つ。峠は大勢の人で賑わったという。日を見る峠、それが日見になった、という説である。 もう一つは「火を見る峠」である。天正六年(一五七八)、長崎の領主・長崎甚左衛門と、深堀の深堀純賢がこの地で戦った。深堀の軍勢は網場(あば)の浜に夜のうちに上陸し、山のあちこちで盛んに火を焚いてみせた。大軍が来たと思わせるための火である。長崎の側からは、峠の向こうに無数の火が見えた。火を見る峠、火見。それが後に日見と改められた、という説である。 この二つ目の話は、史実と突き合わせてもおかしくない。 長崎甚左衛門純景は、長崎の地を治めた領主で、キリシタンだった。洗礼名はドン・ベルナルド。妻の父は大村純忠である。純景は長崎の地をイエズス会に寄進し、貿易港としての長崎の土台を築いた人物として、「長崎開港の祖」と呼ばれる。 深堀純賢は、兄の西郷純堯とともに、反キリスト教の立場から長崎を繰り返し攻めた。天正元年(一五七三)には満潮を利用して六十艘の船で夜襲をかけている。翌天正二年には長崎氏の砦とトードス・オス・サントス教会を焼き払った。天正五年、六年にも長崎を攻めている。案内板が語る「天正六年の戦い」は、この一連の攻撃の中に無理なく収まる。 峠に道が通じたのは永禄十一年(一五六八)だという。それより前、長崎から江戸へ向かうには港から船に乗るしかなかった。深堀勢が火を焚いたころ、この峠道はまだ開かれて十年ほどの、若い道だったことになる。 日見が街道の峠として本格的に整えられるのは、一六五〇年ごろからである。長崎から小倉まで五十七里、およそ二百二十八キロ。二十五ほどの宿場をつなぐ長崎街道の、長崎側の最初の難所がこの峠だった。シーボルトも勝海舟も、江戸へ向かう象やラクダまでもがここを越えた。勝海舟は、甚だ難所だと書き残している。 長崎奉行が着任し、また江戸へ戻るとき、長崎の地役人は立山の奉行所からこの峠まで出て、出迎えと見送りをするのが慣例だった。奉行にとって、日見峠を越えることは長崎に入ること、長崎を離れることと同じ意味を持っていた。 明治に入り、峠は大きく姿を変える。日見新道の切通しが開かれ、それに伴って「新茶屋」と呼ばれた茶屋が一時ここへ移された。峠の頂上は削られ、道筋は付け替えられ、やがて下をトンネルが抜けた。 それでも地名だけは残った。日を拝んだ峠なのか、敵の火を見た峠なのか。案内板は決めていない。 標の前に立って東を見る。高架の向こうの日見の町に、朝日が昇る方角と、四百五十年前に火が並んだ山の稜線とが、同じ視野に入っている。

出どころ峠の頂上付近、木標のそばに長崎市が設置した案内板「日見峠(地名の由来・新茶屋跡)」に拠る。案内板は「日を見る峠」(八朔の日拝み)と「火を見る峠」(天正六年の長崎甚左衛門と深堀純賢の合戦)の二説を併記し、深堀勢が網場から夜間上陸して火を焚いたこと、長崎奉行の送迎の慣例、明治の切通し開削に伴う新茶屋の移転を記す。 長崎純景と深堀純賢の事績は、長崎市の歴史年表および長崎純景に関する事典類・Wikipediaの記述で補った。天正元年の六十艘の夜襲、天正二年の砦と教会の焼き討ちは、それらの資料に見える。峠道の開通が永禄十一年であること、一六五〇年ごろから街道整備が進んだことは、国土交通省長崎河川国道事務所の案内に拠った。現地の写真は運営者が二〇二六年八月に撮影した。
考察地名の由来が二つ並んで残っている、という事実そのものが面白い。 「日を見る峠」の説は、暮らしの側から来ている。八朔の日拝みは江戸から昭和のはじめまで続いたという。何百年も、年に一度、町の人がこの坂を登った。地名がその行為から生まれたのなら、日見は長崎の人々が自分たちの手で名づけた地名ということになる。 「火を見る峠」の説は、戦の側から来ている。夜の海から上陸した敵が、山じゅうに火を焚く。長崎から見れば、峠の向こうがまるごと燃えているように見えたに違いない。この説では、地名はおそらく長崎の側の人間が、恐れとともに口にした言葉から生まれている。 どちらの説も、峠の東側、日見の谷を「見る」という点で一致している。
日見峠の頂上から東を望む。眼下に長崎自動車道、その先に日見の町
日見峠の頂上から東を望む。眼下に長崎自動車道、その先に日見の町
峠は長崎から見て東の縁にある。朝日も敵の火も、東から来る。日見という地名は、東を見る場所という一点で、二つの説を同時に抱えたまま今日まで残った。 気になるのは、火の話がなぜ消えなかったかである。深堀勢の攻撃は天正の初めから何度も続き、教会も砦も焼かれている。長崎の町にとっては屈辱の記憶のはずである。それでも四百五十年後の案内板に載っているのは、この話が「敵の数を火で偽った」という、ある種の説話として語り継がれたからではないか。火を焚いて大軍に見せかける計略は各地の合戦譚に類型がある。日見の火見説も、その型の中で生き延びたのだと思う。 峠は長崎奉行の送迎の場でもあった。地役人が立山からここまで出て、奉行を迎え、送る。日見峠は長崎にとって、町の内と外を分ける線だった。その線の上で人々は朝日を拝み、敵の火を数えた。地名の二つの説は、どちらもこの峠が「境」であったことを語っている。 もう一つ。案内板は二説を並べて、どちらとも決めていない。市の史蹟解説としてはやや珍しい態度である。確定しないものを確定しないまま書いたこの誠実さが、この峠の記憶をかえって豊かにしている。 現地に立つと、峠の東側はいまも急で、西側はゆるい。深堀勢が火を焚いた側から登ってくるのは、今も昔も骨が折れる。地名の由来が二つあっても、地形は一つしかない。
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