不思議帖

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長崎街道不思議帖

公開 2026年9月30日

芒塚句碑 — 去来の別れ、俳句が町の名になった

日見峠の麓に立つ向井去来の句碑。見送りの人々へ詠んだ一句が、やがて「芒塚町」という町の名になった。

怖さ

日見トンネルの東口を出て、旧街道の坂をわずかに登ると、道の脇に屋根付きの覆屋がある。その下に三基の石碑が並ぶ。

芒塚句碑(三基)。中央が去来の句碑、左が漢詩碑、右が献句碑
芒塚句碑(三基)。中央が去来の句碑、左が漢詩碑、右が献句碑
中央の碑の上には獅子の石像が据わり、左には漢詩の碑、右には献句の碑。ここが芒塚(すすきづか)である。碑の前に立つと、この地の名のもとになった句が読める。 君が手もまじるなるべし花薄。 詠んだのは向井去来。元禄二年(一六八九)、一時帰郷していた長崎を離れるにあたり、ここまで見送りに来た人々に向けて詠んだ一句である。見送りの中には従弟の簑田卯七がいた。峠道に薄の穂が揺れている。その白い穂のなかに、君たちが振る手も混じっているのだろう。そういう句だ。 去来は慶安四年(一六五一)、長崎の後興善町に生まれた。父は儒医の向井元升。名は兼時、字は元淵、通称は平次郎。八歳のとき父とともに京都へ移り、三十代半ばで芭蕉の門に入った。蕉門十哲の一人に数えられ、『去来抄』『旅寝論』を残し、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」と呼ばれた人物である。元禄二年の帰郷は、長崎に蕉風俳諧を伝えた旅でもあった。芒塚の句は、その滞在の締めくくりに詠まれている。 碑が建てられたのは、去来の死から八十年後の天明四年(一七八四)。建てたのは長崎の俳人たちである。裏面には「天明四甲辰年三月吉旦 発企玉渕 崎陽蕉門末流某等謹建 石工正廣」と刻まれている。発起人は玉渕、建てたのは崎陽つまり長崎の蕉門の末流を名乗る人々、石を刻んだのは正廣という石工。右の献句碑はさらに後、安政三年(一八五六)に加えられたものだ。左の漢詩碑を含めて、三基が一つの覆屋に収まっている。 やがて、この碑が立つ一帯そのものが「芒塚町」と呼ばれるようになった。俳句の一語が町の名になった例である。長崎街道の長崎側最初の難所、「西の箱根」と恐れられた日見峠の麓に、別れの句から生まれた町がある。 碑は昭和二十九年(一九五四)に県の史跡に指定された。だが、いまの場所はもとの場所ではない。もとは日見トンネル東口の左手、丘の上にあった。九州横断自動車道の日見インター建設に伴い、平成十三年(二〇〇一)に現在地へ移された。移設と同時に、種別も史跡から有形文化財に改められている。指定日は同年二月二十六日。所在地は長崎市芒塚町五八三の二、所有者は長崎市。 現地には案内板が二つある。一つは長崎市教育委員会が平成二十三年三月に設置したもの。もう一つは二〇二五年に設置された四か国語のもので、去来の生地について、後興善町の旧新興善小学校裏門付近と補足している。 覆屋のそばには、石垣の前に小さな自然石が四つ並ぶ。うち一つに金文字で「顕彰記」と読める。同じ芒塚町の街道筋には、自然石を積み上げた常夜燈が立つ。笠石、火袋、中台、竿、そして自然石の基礎。竿には「奉献」の二字が読めるが、その下に続く寄進者の名らしき文字は地衣類に覆われて判読できない。こちらには案内板もない。 令和三年、同じ芒塚町に長崎市教育委員会が日本遺産「歴史の道 長崎街道」の大型案内板を立てた。そこには、江戸期における長崎の関門は日見峠の関所であったと書かれている。関門を前にして、人はここで足を止め、別れを済ませた。去来を見送った人々も、そうだった。 見送りの句が町の名になり、町の名が碑を呼ぶ名になった。碑は一度動かされたが、名は動かなかった。

出どころ長崎市芒塚町五八三の二、県指定有形文化財「芒塚句碑(三基)」の現地案内板に拠った。長崎市教育委員会が平成二十三年三月に設置したものと、二〇二五年に設置された四か国語の案内板の二つである。去来の経歴、建立年、裏面の銘文、移設の経緯はいずれもこれに基づき、長崎市文化財課と長崎県の文化財データベースの記載で照合した。碑の裏面の銘文、覆屋そばの自然石、常夜燈の刻字は、二〇二六年八月に運営者が現地で確認した。常夜燈には案内板がなく、寄進者名は読めなかった。なお、街道歩きの記録サイトの中には芒塚句碑を芭蕉百二十回忌・去来百十回忌の文化十年(一八一三)建立とするものがあるが、これは本河内の渡鳥塚との取り違えである。本稿は案内板のとおり天明四年(一七八四)を採る。
考察なぜ、去来の数ある句のなかでこの一句が碑になり、町の名にまでなったのか。 一つは場所の力である。日見峠は長崎街道の長崎側最初の難所で、旅立つ者を見送る側は峠の手前で足を止める。
芒塚町に立つ日本遺産「歴史の道 長崎街道」の案内板
芒塚町に立つ日本遺産「歴史の道 長崎街道」の案内板
去来の見送りもここで終わった。「君が手も」の句は、その別れの瞬間を、峠道に揺れる薄に重ねている。去来にとっての長崎は、八歳で離れた生まれ故郷だった。元禄二年の帰郷は、その故郷に俳諧を伝える旅でもあった。この句は、蕉風の種を蒔いて去っていく人の後ろ姿を、残された側が忘れないための句だったのだと思う。 もう一つは時間の力である。碑が建ったのは去来の死から八十年後。建てたのは去来を直接知らない世代で、自らを「崎陽蕉門末流」と名乗っている。末流、という言葉には、自分たちが去来の流れの末端にいるという自覚と誇りが同居している。長崎の俳人たちは、去来を「長崎に俳諧を伝えた人」として記憶していた。碑を建てるという行為は、その記憶を石に置き換え、街道を通る旅人にも見せることだった。安政三年の献句碑はその七十年後に加えられている。碑は一度建てたら終わりではなく、代を重ねて厚みを増していった。 そして、町の名である。地名が一句から生まれた例は多くない。役所の側から見れば、碑があるから芒塚であり、芒塚だから町の名になった。だが順序を逆に見ることもできる。人々がこの場所を芒塚と呼び続けたから、碑がここにあり続けた、と。 現地に立つと、碑がもとあった丘は日見インターの構造物の向こうにある。平成十三年の移設で、碑は句が詠まれた地点そのものからは離れた。それでも「芒塚町」の名は残り、碑はその町の中にある。名前が場所をつなぎとめている。日見峠は、越える者が必ず何かを置いていく場所だった。去来は別れを置いていき、明治の人々は峠そのものを削って新道を通した。碑もまた、高速道路のために丘を明け渡した。残ったのは名だけである。 街道筋の常夜燈は、案内板もなく、寄進者の名も地衣類に隠れて読めない。
芒塚町の街道筋に残る常夜燈。竿に「奉献」の文字が読める
芒塚町の街道筋に残る常夜燈。竿に「奉献」の文字が読める
名を刻んでも読めなくなるものがあり、名を刻まなくても町の名として残るものがある。去来はそのどちらも知らずに峠を越えていった。
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