不思議帖

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世界の謎不思議帖

公開 2026年8月17日/更新 2026年8月18日

モアイ像の運搬の謎

最大80トンの石像は、いかにして「歩いた」のか。

怖さ

絶海の孤島、イースター島。現地の呼び名はラパ・ヌイという。 南米大陸から3700キロメートル。最も近い有人島までも2000キロ近い、地球上で最も孤立した島のひとつである。 その小さな島に、約900体の巨大な石像モアイが残されている。 平均で高さ4メートル、重さ12トン。最大級のものは高さ10メートル、重さ80トンを超える。すべては島の一角にあるラノ・ララクという石切り場で彫られ、そこから最大で18キロも離れた海岸沿いの祭壇まで運ばれた。 重機は無い。車輪も無い。荷を引ける大型の家畜もいない。 いったい、どうやって。 しかも、運ぶだけでは終わらない。海岸のアフと呼ばれる石造りの祭壇に据え、直立させ、さらに一部の像には頭上に赤い石の帽子まで載せている。この帽子だけで数トンある。 島の面積は、日本の小さな市ほどしかない。そこに住む人々が、何百年にもわたってこの作業を繰り返した。 丸太のコロで転がした。木製のソリで引いた。長らくそう考えられてきた。だが島の伝承は、まったく別のことを一貫して語り続けてきた。 ——モアイは、自分で歩いてきた。 歌にも、語りにも、そう残っている。長いあいだ、これは詩的な比喩か、後世の作り話だと思われていた。 1980年代、チェコの実験考古学者パベル・パベルが、探検家トール・ヘイエルダールとともに検証を試みたことがある。16人と指揮者ひとりで、像を「すり足」のように動かす方法だった。多少は動いたが、摩擦が大きく、実用には遠かった。使った像も、祭壇に据えるために底を削った型のもので、歩かせるには不向きだった。 決定的な実験が行われたのは2011年である。 ハワイ大学のテリー・ハントとカリフォルニア州立大学のカール・リポが、島の先住民ラパヌイ出身の考古学者セルジオ・ラプの協力を得て、ある発想にたどりついた。 運搬途中のモアイは、祭壇に立っているものと形が違う。腹が前に出ていて、底面がアルファベットのDのように丸い。これは、前に傾けて左右に揺らすための形ではないか——。 3本のロープを用意した。左右と、後方から支える一本。わずか18人が少し練習しただけで、高さ3メートル・重さ5トンのレプリカが、直立したまま前へ進んだ。丸太は一本も使っていない。冷蔵庫を左右に揺らして動かすときの、あの動きである。 映像で見ると、この動きは奇妙なほど生き物じみている。像が左に傾き、右足にあたる部分が前へ出る。次に右へ傾き、左が出る。ゆっくりと、しかし確実に、石の塊が歩いていく。 島の人々が「歩いた」と表現したのは、比喩でも詩でもなく、見たままの描写だったのだと分かる。 そして2025年、この仮説を裏づける研究が発表された。 研究チームは962体のモアイを分析し、高精細な3Dモデルを作成した。すると、運搬用のモアイには共通の設計が見つかった。垂直から6度から15度ほど前に傾いており、重心が台座の前縁のあたり、あるいはわずかに外側に来るように彫られている。左右に傾けると前へ倒れる力が働き、丸い前縁が支点になって「一歩」出るのだ。 重さ4.35トンのレプリカを作り、実験が行われた。左右のロープに各4人、後方の制御ロープに10人。合わせて18人である。 ジグザグに揺らしながら、像は40分で100メートル進んだ。 島に残る古代の道路も、この説を支えている。幅は約4.5メートル。横断面が凹型にへこんでいる。歩くモアイが安定するように、意図して作られた可能性が高いという。像が通るたびに道が削れ、次の像を助ける形になっていったとも考えられる。 そして、道の途中に倒れたまま放置されたモアイたち。あれは、直立して運ばれている最中に倒れ、立て直そうとして果たせなかった痕跡だと解釈できる。 祭壇に着いたモアイは、そこで仕上げをされたらしい。台座の前部を削って前傾を取り除き、重心を中央に戻す。歩くための体から、立つための体へ。 石切り場に残された未完成の像も、この説明とよく合う。ラノ・ララクの斜面には、彫りかけのまま岩盤とつながった像が数百体も残っている。中には全長20メートルを超える、完成すれば運搬不可能だったであろう巨像もある。 作りかけで止まった理由は、いまも議論が続いている。だが少なくとも、彼らが最後まで挑戦をやめなかったことだけは確かだ。 数百年前の伝承は、比喩ではなかった。運搬技術の記憶そのものだったのである。

出どころ13〜16世紀頃、ラパ・ヌイ(イースター島)のポリネシア系住民が建造。2011年と2025年の実験・分析で「歩行運搬」説が有力になった。
考察この件は、「神話は失われた技術の記憶かもしれない」ことを示す最良の事例のひとつである。 島の人々は、ずっと同じことを言い続けていた。モアイは歩いた、と。外から来た研究者たちは、それを信仰の言葉として受け取り、実際の運搬方法は別にあると考えた。ところが百年以上かかって、伝承のほうが正確だったと分かりつつある。 口承をどう扱うか、という問題がここにある。伝承は事実の記録ではないことも多い。だが、まるきりの空想でもない。少なくとも「歩いた」という一語を捨てなかったことが、最終的に答えへの道を残した。 もうひとつ、この島は長らく別の物語でも語られてきた。森を切り尽くし、資源を使い果たし、内乱の末に自滅した文明——環境破壊の教訓話としての、イースター島である。 この筋書きも、近年かなり見直されている。人口が壊滅的に減ったとされる時期や規模、森林減少の速さ、そして何より、外部との接触後に持ち込まれた病気や奴隷狩りの影響。島の人々が自分で自分を滅ぼしたという単純な図式は、もう成り立ちにくくなっている。 運搬方法の解明と、この見直しは、実は同じ話だ。どちらも、島の人々を過小評価していたことの訂正である。木を無駄に使い果たしたと思われていた人々は、丸太をほとんど使わずに石像を運ぶ方法を持っていた。 最後にひとつ。18人という数は、ちょうど大家族か、小さな集落の働き手ぐらいの規模である。国家的な大事業でも、奴隷の大群でもない。近所の人たちが集まって、歌を歌いながら、何日もかけて石像を歩かせる。 そう考えると、あの島の風景は少し違って見えてくる。 実験を主導した研究者は、道そのものが運搬技術の一部だったとも述べている。像が通るたびに路面が削れて凹み、その凹みが次の像の揺れを安定させる。使うほど良くなる道である。 島に残る道路網は、単なる通路ではなく、装置だったことになる。
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