不思議帖

怪異と謎のアーカイブ

世界の謎不思議帖

公開 2026年8月29日

シュレーディンガーの猫

箱を開けるまで、猫は生きていて、死んでいる

怖さ

鋼鉄の箱がある。中には一匹の猫と、猫が手出しできないよう守られた「地獄の装置」が入っている。装置の中身はこうだ。ガイガー計数管の中に、ごく微量の放射性物質。あまりに少ないので、一時間のうちに原子が一個崩壊するかもしれないし、同じ確率で一個も崩壊しないかもしれない。もし崩壊が起きれば計数管が反応し、リレーが働いてハンマーが落ち、青酸の小瓶を砕く。猫は死ぬ。崩壊が起きなければ、猫は生きている。 箱を閉じて一時間待つ。さて、蓋を開ける直前、猫はどうなっているのか。 量子力学の教科書どおりに計算すると、原子は「崩壊した」と「崩壊していない」が半分ずつ重なった状態にある。原子の運命は装置を通じて猫の運命に直結しているから、箱全体を記述する波動関数には、生きた猫と死んだ猫が「等しい割合で混ざり合い、塗り広げられて」入っている。蓋を開けて覗いた瞬間に、その重なりはどちらか一方に落ち着く。それまでは、猫は生きていて、同時に死んでいる。 この奇妙な話を考えたのは、オーストリア生まれの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーだ。一九二六年に波動方程式を打ち立て、一九三三年にノーベル物理学賞を受けた、量子力学の建設者のひとりである。ナチス政権を嫌ってその年にベルリンを去り、オックスフォードに身を寄せていた。 猫が生まれたのは一九三五年の夏、一通の手紙の往復からだった。その年の五月、アインシュタインがポドルスキー、ローゼンと連名で「量子力学は不完全である」と主張する論文(いわゆるEPR論文)を発表した。シュレーディンガーはすぐに祝いの手紙を送り、「独断的な量子力学」に一撃を加えたことを喜んだ。アインシュタインは六月の返信で、当時の量子力学を「認識論に酔いしれた乱痴気騒ぎ」と罵っている。 八月八日、アインシュタインはひとつのたとえを持ち出した。不安定な火薬の樽がある。一年のうちに爆発するかしないか、確率は半々。量子力学の言い分なら、この樽は一年後、「爆発した」と「爆発していない」が混ざった状態として記述されるはずだ。だがそんな樽は現実には存在しない。だから量子力学の記述は現実そのものではない、と。 八月十九日、シュレーディンガーが返事を書く。火薬の樽を、猫と青酸に置き換えて。アインシュタインは九月四日、「我々は完全に一致している」と喜んだ。 シュレーディンガーはこの猫を、その秋に専門誌『ナトゥアヴィッセンシャフテン』に三回に分けて連載した論文「量子力学の現状」の一節として発表した。彼自身の言葉では「まったく馬鹿げたケース」である。ここが肝心なところで、彼は「猫が生きながら死んでいる」と主張したかったのではない。逆だ。ボーアやハイゼンベルクが唱える解釈をそのまま押し通せば、こんな馬鹿げた結論が出てしまう。だから量子力学の記述には何かが足りない、という帰謬法だった。原子のような小さな世界に閉じ込めておいたはずの「あいまいさ」が、装置を一段ずつ伝って、肉眼で見える大きさの「あいまいさ」に育ってしまう。この論文で彼は、二つの粒子が分かちがたく結びつく現象に「もつれ(Verschränkung)」という名を与えてもいる。 猫の話は、発表当時ほとんど注目されなかった。論文の引用はごくわずかで、長いあいだ忘れられていた。掘り起こしたのは物理学者ではなくSF作家である。一九七〇年代、アーシュラ・K・ル=グウィンが長編『所有せざる人々』の準備で量子力学を勉強するうち、この猫に出会い、一九七四年に短編「シュレーディンガーの猫」を書いた。科学史家ロバート・クリースは、この短編が猫を大衆文化に連れ出したのだと述べている。以来、猫は小説、詩、映画、アニメ、ゲームに繰り返し現れ、いまでは物理学の中よりも外の世界で有名になった。 そして本物の「猫」も作られるようになった。もちろん猫そのものではなく、大きな物体を二つの状態の重ね合わせに置く「猫状態」である。一九九六年、アメリカ国立標準技術研究所で、罠に捕らえたベリリウムイオンが二つの場所に同時にいる状態が作られた。超伝導リングでは、電子の流れが右回りと左回りを同時に取る。二〇二三年にはスイス連邦工科大学チューリッヒ校のチームが、超伝導量子ビットと結びつけたサファイアの結晶を、互いに逆向きに振動する二つの状態の重ね合わせにした。重さはおよそ十六マイクログラム、砂粒ひとつぶん。それまでの記録を何桁も上回る「太った猫」だった。二〇二四年には中国の研究チームが、絶対零度近くまで冷やした一万個のイッテルビウム原子の重ね合わせを、千四百秒——二十三分あまり——保たせたと報告している。重ね合わせは普通、一瞬で壊れる。猫は少しずつ大きく、少しずつ長生きになっている。 蓋を開けるまで猫はどうしているのか。九十年経っても、物理学者のあいだで答えは一つになっていない。

出どころエルヴィン・シュレーディンガー「量子力学の現状」(Die gegenwärtige Situation in der Quantenmechanik、『Naturwissenschaften』誌、1935年)。猫の記述は同論文第5節。装置の描写(ガイガー計数管・リレー・ハンマー・青酸の小瓶・一時間)と「まったく馬鹿げたケース」「等しい割合で混ざり合い塗り広げられて」の表現は原文の英訳(J. D. Trimmer訳、1980年)に拠る。 アインシュタインとの往復書簡(1935年6月17日、8月8日、8月19日、9月4日)と火薬の樽の逸話は、科学誌Nautilusの記事「How Einstein and Schrödinger Conspired to Kill a Cat」ほか。アインシュタインの1950年の手紙(「放射性原子+増幅器+火薬+箱の中の猫」で彼らの解釈は最も優雅に反駁される)は英語版Wikipedia「Schrödinger's cat」より。 各解釈の整理(コペンハーゲン、多世界、デコヒーレンス、隠れた変数、自発的収縮、関係性解釈、ウィグナーの友人)は日本語版・英語版Wikipedia。 ル=グウィンの短編とロバート・クリースの指摘は英語版Wikipedia。日本での流行について芦辺拓の「日本人好みの無常観」という指摘は日本語版Wikipedia。 実験: NISTのベリリウムイオン(Monroe他、1996年)、ETHチューリッヒのサファイア結晶16マイクログラム(Yiwen Chu研究室、Science誌2023年4月、ETH Zurichニュース「Fat quantum cats」)、中国科学技術大学のイッテルビウム原子1万個・1400秒(arXiv 2410.09331、2024年10月、IFLScience報道)。 スティーヴン・ホーキングの「シュレーディンガーの猫の話を聞くと銃に手が伸びる」は広く引用される発言だが、一次出典は確認できていない。
考察この話の一番の不思議は、猫が生きながら死んでいることではない。「そんな馬鹿な話があるか」と言うために作られた猫が、いつのまにか「そんな不思議なことがあるのか」の象徴として一人歩きしていることだ。 シュレーディンガー本人は、猫が本当に重なっていると信じたわけではない。彼は波動関数を現実の描写だと思いたかった。ところが現実の描写だと言い張ると、猫が二重になる。それを認めたくないから「量子力学はまだ完成していない」と結論づけた。アインシュタインも同じ側にいた。ふたりは量子力学の建設者でありながら、自分たちが建てた家の中で最後まで落ち着けなかった。 では、猫はいつ生き死にを決めるのか。答えは解釈の数だけある。コペンハーゲン解釈をボーアの言葉に忠実にたどれば、ガイガー計数管が反応した時点で「元に戻せない」出来事が起きており、猫の生死は蓋を開けるずっと前に決まっている——重ね合わせは計算上の便宜にすぎない。多世界解釈では、猫は本当に両方になる。ただし生きている猫の世界と死んだ猫の世界は分かれてしまい、互いに連絡がつかない。蓋を開けたあなたも二人に分かれる。デコヒーレンスの考え方では、猫のような大きな物体は周囲の空気や光と絶えず触れ合っているため、重ね合わせは一瞬で壊れて日常の姿に戻る。箱の中の猫はとっくにどちらかだ。関係性解釈では、猫にとっては装置の状態はすでに確定しており、外の人間にとってだけ未確定である。どちらも正しい。 つまり、猫が半死半生でいられるのは「誰も触れていない」あいだだけであり、現実の猫は空気に触れ、床に触れ、自分の体温で自分を観測しつづけている。猫を本当に重ね合わせに保ちたければ、絶対零度近くまで冷やし、真空に閉じ込め、砂粒ほどの大きさにする必要がある。二〇二三年のサファイアの猫がそれだ。実験は思考実験の答えを出したのではなく、境界線を少しずつ猫のほうへ押し広げている。 芦辺拓は、この話が日本で妙に好まれるのは「無常観」のせいではないかと言った。生きているのか死んでいるのか分からないまま、蓋を開けるまでの一時間。それは病室の外で待つ時間にも、連絡の途絶えた誰かを思う夜にも似ている。私たちはみな、開けていない箱をいくつか抱えて暮らしている。 なお、シュレーディンガーが後年「あの猫に会わなければよかった」とこぼしたという逸話が出回っているが、確かな出典は見つからない。猫と同じで、言ったとも言わなかったとも決めきれない。
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