公開 2026年8月17日/更新 2026年8月18日
正丸峠の追いかけてくる幽霊
埼玉の山道を走る車を、白い影が猛スピードで追いかけてくる。
埼玉県の奥、飯能市と横瀬町の境に、標高636メートルの峠がある。 正丸峠。江戸と秩父を結ぶ古い道のひとつで、秩父の札所を巡る人々が越えてきた。1830年に完成した地誌には「盤回して難所なり」と記されている。道幅は三尺から六尺、つまり一メートルから二メートルほど。曲がりくねった、細い山道だった。 近代に入って国道299号となり、車が通るようになる。 そして1982年3月、峠の山腹に全長1,918メートルのトンネルが開通した。 国道はトンネルを通ることになり、峠の旧道は役目を終える。かつて30分かかった区間が、3分で抜けられるようになった。 交通量は激減した。舗装はされているが、道は狭く、路面は荒れている。夜になれば、走る車はほとんどない。 静かになった山道で、多くのドライバーが同じ体験を語るようになった。 時期も重なっている。1980年代は、若者が車で峠へ集まった時代だった。速く走るために、わざわざ交通量の減った旧道を選ぶ。深夜の山道に、車が集まる。 そして事故が続いた。 ——ミラーに、何かが映っている。 夜の峠道を、カーブをいくつも曲がりながら登っていく。ふとバックミラーを見ると、白い人影がある。 最初は遠く、ぼんやりしている。だが見ているうちに、近づいてくる。 人間の足で走れる速さではない。コーナーを曲がってもついてくる。ライトを消してみると闇に溶けるが、またつければ、そこに映っている。 体験者の多くが言うのは、女の形をしていた、ということだ。白い着物、あるいは白いワンピース。長い髪。顔ははっきりしない。 追いかけられた者の中には、恐怖でハンドル操作を誤りそうになった者もいる。 ここが、この怪談のいちばん現実的な危険である。夜の狭い峠道で、ミラーに気を取られる。次のカーブが来る。速度は落ちていない。 怪異が事故を起こすのではない。怪異を気にすることが事故を起こす。 峠の由来には諸説ある。かつてこの山道で命を落とした者の霊だとも、身を投げた女性の霊だとも語られる。 語られる怪異も一種類ではない。白い服の女のほかに、老婆の霊、四つん這いで追ってくるもの、人面犬。乗せてくれと手を挙げる人影の話もある。ひとつの峠に、これだけの種類が集まっている場所は多くない。 不思議なのは、証言の一致する点がひとつあることだ。 峠を下りきって、町の明かりが見えた瞬間、影は消える。 この峠には、意外に古い記録が残っている。 1991年8月と9月、地元紙が「県内の怪奇なウワサ」と題した特集を組み、この峠の噂を取材している。二回にわたって20篇ほどの話が収録された、なかなか気合の入った記事である。 面白いのは、記事の中に「心霊」という言葉が一度も使われていないことだ。怪談の主は「妖怪」と表現されている。そして、いまでは聞かない呼び名も出てくる。 ——よつんばい。 四つん這いで追ってくるもの、という意味だろう。走り屋が集まり、事故が続いた時代の記憶が、まだ生々しかった頃の呼び名である。 いまの峠は、昼間はまったく別の顔をしている。頂上近くには茶屋があり、名物の丼を食べられる。展望台からは奥武蔵の山々が見渡せ、天気がよければ東京のタワーまで望める。夜景の名所でもある。 もっとも、2024年3月の斜面崩落により、峠道は現在も通行止めが続いている。 追いかけてくる誰かも、しばらくは休んでいるのかもしれない。
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