長崎街道不思議帖
公開 2026年9月30日
日見峠の茶屋 — シーボルトが見た四軒
新茶屋跡の碑と石臼二つ。シーボルトが山頂で見た茶屋と、旅人が初めて財布を開いた場所。
怖さ
本河内三丁目の自治会掲示板の脇に、自然石の碑がひとつ立っている。「日見峠 新茶屋之跡」。
本河内三丁目に残る「日見峠 新茶屋之跡」の碑。石臼二つと石の水槽が並ぶ碑の前には石臼が二つと、石を刳り抜いた水槽が並んでいる。
車道はセメントで固められ、向かいには民家の石垣がある。何もない、と言えば何もない場所である。だが案内板によれば、この舗装の下には江戸のころの石畳がそのまま眠っているという。
ここは茶屋だった。西の箱根と恐れられた日見峠を越える旅人が、ひと息つく場所である。
長崎街道は小倉から長崎まで五十七里。二十五ほどの宿場を数え、大人数なら七日、少人数でも五日かかった。その最後に待っているのが日見峠である。街道一の急坂と言われ、江戸のころの峠道は平成八年に建設省の歴史国道に選ばれている。旅人はこの坂を、茶屋で休みながら越えた。
文政九年(一八二六)、出島のオランダ商館長に随行して江戸へ向かったシーボルトは、『江戸参府紀行』の中でこの峠を書いている。モミの並木が麓まで続き、そこから険しい長崎峠にかかる。シン峠、つまり新峠と呼ばれる日見峠の山頂には一軒の茶屋があり、一行はまもなくそこにたどり着いた。そういう記述である。
長崎市の案内板は、峠の茶屋の配置をこう記す。東側の中腹に一軒、頂上に一軒、西側の中腹に二軒。合わせて四軒。シーボルトが山頂で見た一軒は、このうちの頂上の茶屋にあたる。
茶屋の役目は、休むことだけではなかった。急坂を登り切った旅人は、まず荷を下ろし、汗を拭き、茶を飲む。そして、そこで初めて財布を開く。峠を越えるまでは金を使う場面がない。茶屋は長崎に入る旅人、長崎を出る旅人が、最初か最後に銭を払う場所だった。
長崎街道は砂糖の道でもあった。出島に陸揚げされた砂糖がこの街道を通って小倉へ運ばれ、沿道に菓子の文化が根づいた。シュガーロードと呼ばれるゆえんである。日本遺産の案内板もその名を掲げている。峠の茶屋で出されたものが何だったかは記録にないが、砂糖の通り道の最初の休み場が、甘いものと無縁だったとは思えない。
この新茶屋は、藤棚の下に設けられた休憩所だったという。藤の花の季節に峠を越えた人は、木陰で茶を飲んだのだろう。碑の前に残る石臼二つは、案内板で「当時の石の遺物」と書かれているものである。現地で見れば、それが茶屋の道具だった石臼だとわかる。何を挽いたのかまでは記録にない。
四軒の茶屋の名が、すべて伝わっているわけではない。ただ、峠の中腹にあった一軒は「梨子の木茶屋」と呼ばれ、いまも石標が残る。明治十五年(一八八二)に日見新道が開かれると、この梨子の木茶屋には日見側の料金徴収所が置かれた。江戸の旅人が茶代を払った場所で、明治の人力車と馬車は通行料を払った。茶屋は、時代が変わっても銭を払う場所であり続けたことになる。
新茶屋の名の由来も、明治の道と関わりがある。峠の案内板は、日見新道の切通しを開削したとき、それに伴って茶屋が一時的にここへ移されたと記す。旧道の茶屋が、新しい道の脇へ動いた。だから新茶屋である。
峠の道はその後も付け替えられた。大正十五年に日見トンネルが開通し、平成十一年には新日見トンネルが抜けた。車は峠の下を通る。茶屋の跡は、旧道を歩く者しか目にしない。
碑の前に立つと、石臼はただの石に見える。だが、この石の前で財布を開いた人の数を思うと、石はもう少し違うものに見えてくる。
出どころ新茶屋跡の石碑の地点に長崎市が設置した案内板「日見峠の茶屋」に拠る。案内板は、シーボルト『江戸参府紀行』の日見峠の記述、茶屋四軒の配置(東側中腹一軒・頂上一軒・西側中腹二軒)、この場所が「新茶屋」と呼ばれ藤棚の休憩所だったこと、石の遺物二つと向かいの民家の石垣、舗装の下に残る石畳について記す。
碑の前に並ぶのが石臼二つと石の水槽であることは、運営者が二〇二六年八月に現地で撮影して確かめた。案内板の「石の遺物」の正体は現地で見て初めてわかる。
梨子の木茶屋が明治の日見新道の料金徴収所だったことは、長崎市の「日見の史蹟」ページに拠る。新茶屋の移転については、峠の頂上にある別の案内板「日見峠(地名の由来・新茶屋跡)」の記述を用いた。日見新道の開通年、トンネルの年代は国土交通省長崎河川国道事務所の案内に拠った。
考察シーボルトの記述で目を引くのは、峠を「シン峠」と呼んでいることである。新峠。文政のころ、すでにこの峠は「新しい峠」と呼ばれていた。峠道が開かれたのは永禄十一年(一五六八)で、それより前は長崎から船で出るのが常だったという。船に対して新しい道、という意味の「新」が、二百五十年後のシーボルトの耳にまで残っていたことになる。
茶屋が四軒あったというのも、峠の性格をよく表している。東の中腹、頂上、西の中腹。登りの途中と、登り切ったところと、下りの途中。旅人はどこで足を止めてもよかった。案内板は、旅人は茶屋で休憩しながら峠を越えた、と書く。四軒は多いようで、日見峠の急坂を思えば、むしろ必要な数だったのだろう。
このサイトには以前、この峠の酒まんじゅう屋の話を書いた。旅の若者が路銀を失い、峠で命を絶ったという口伝である。あの話の舞台は、まさにこの四軒のどれかだったはずだ。茶屋とは旅人が初めて財布を開く場所である。財布を開く場所は、財布をなくす場所でもある。口伝が茶屋を舞台に選んだのは、偶然ではない。
現地に立つと、新茶屋跡の碑は掲示板の脇に、目立たずに立っている。石臼は誰も見ない。
「日見峠 新茶屋之跡」の碑だがここには、シーボルトが立ち寄った茶屋の系譜と、明治の道の付け替えと、舗装の下の石畳とが、数メートル四方に重なっている。
茶屋と道の関係も面白い。梨子の木茶屋は明治の料金所になり、新茶屋は切通しの開削に伴って場所を移した。道が変わると、茶屋も動く。茶屋は道に従う施設であって、土地に根を張るものではなかった。だから四軒のうち、いまも場所がわかるのは石標と碑が残る二軒だけである。
気になるのは、案内板が「石の遺物」とだけ書いて、石臼とは書いていないことである。設置時には何の道具か特定を避けたのか、単に省いたのか、わからない。現地で見れば石臼であることは疑いようがないのだが、案内板は言い切らなかった。
茶屋は消え、道は下を通る。それでも人が碑を建て、石臼を並べたのは、ここで休んだ人の数を忘れたくなかったからだと思う。
この記事は、複数の公開資料・報道・現地の案内板などにあたったうえで、当サイトが書き起こしたものです。確認できた事実と伝聞は分けて記し、検証で説明がついている点は併記しています。記事の作り方と掲載基準は
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