不思議帖

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長崎街道不思議帖

公開 2026年9月30日

日見峠関番所跡 — 長崎を閉じた四つの門

幕末に幕府が置いた四つの関番所のひとつ。六年で閉じ、明治の切通しに敷地の半分を削られた跡。

怖さ

いまは木の柱が一本あるだけである。 日見峠の八合目あたり、明治の切通しの脇に、日見峠関番所跡と記した木柱が立つ。建物はない。石垣もない。案内板が一枚あって、ここに幕府の番所があったことを教えてくれる。 万延元年(一八六〇)三月三日、江戸城の桜田門の外で大老・井伊直弼が討たれた。この事件のあと、世の中の空気が変わる。倒幕の気運が高まり、諸国の志士が動き出した。 長崎は開港地である。安政六年(一八五九)には外国人居留地が開かれ、出島だけだった窓が町へ広がっていた。外国船が入り、情報が集まり、人が集まる。幕府はこの町の出入りを見張る必要に迫られた。そこで長崎の出入口にあたる四か所、日見、西山、浦上、茂木に関番所を置いた。陸から長崎に入る道を、四つの門で閉じたのである。 日見峠の関番所が設けられたのは文久三年(一八六三)。守ったのは島原藩士などだった。 なぜ島原藩なのか。日見の地は、島原の乱より前は島原領だった。乱のあとに天領となり、長崎代官の支配下に入った。幕末になっても、この土地の防備を島原藩が担ったのは、そうした来歴の名残と見ることができる。 番所の役目は、峠を越えて長崎に入る者、長崎から出る者を改めることだった。日本遺産「歴史の道 長崎街道」の案内板には、江戸期における長崎の関門は日見峠の関所である、と書かれている。街道一の急坂を登り切った旅人は、息を整える前に、まず番所の前に立たされた。 この峠には、もともと番所とは別の見張りの記憶がある。長崎奉行が着任するとき、離任するとき、長崎の地役人は立山の奉行所からこの峠まで出て迎え、送った。峠は幕府の役人が長崎に入る門だった。幕末の関番所は、その門に錠を掛けたようなものである。 番所の命は短かった。明治二年(一八六九)、明治維新に伴って閉鎖される。設置から六年。長崎市の史蹟ページには「約四年間」とあって、期間の記述には揺れがある。どちらにせよ、十年に満たない。倒幕を恐れて置いた番所が、倒幕が成った途端に用済みになった。 そして十三年後、番所の跡地そのものが削られた。 明治十五年(一八八二)、日見新道が開通する。人力車と馬車を通すため、峠の頂上を百十尺、およそ三十三メートル切り下げた道である。国から下りた資金では足りず、長崎の財界人が会社を設立して民間の金を集め、開通後に通行料を取って回収した。長崎県で最初の有料道路である。切通しは番所の跡地にかかり、敷地のおよそ半分が消えた。案内板はそれを、日見新道建設の際に一部が切通しにかかった、と淡々と記している。 幕府が長崎を閉じるために置いた門を、明治の道が通りやすくするために削った。時代の転換が、そのまま地形に刻まれている。 大正十五年には峠の下を日見トンネルが抜け、平成十一年には新日見トンネルが開いた。切通しの道さえ、いまは歩く人の道になっている。 いま、切通しの脇に木柱だけが立つ理由は、これである。建物が失われただけでなく、建物の建っていた地面が半分ない。残っているのは、地面の残り半分と、そこに立てた柱と、案内板の文字だけである。 四つの門のうち、いちばん険しい道にあった門。峠を越えた者が最初に出会う幕府の目。それがここにあった。木柱の前で、旅人が名を告げ、荷を改められた場所を想像するしかない。

出どころ現地の案内板「日見峠関番所跡」(長崎市設置)に拠る。案内板は、桜田門外の変の後の情勢、長崎の出入口四か所(日見・西山・浦上・茂木)への関番所設置、文久三年の日見峠関番所の設置と島原藩士などによる防備、明治二年の閉鎖、日見新道建設に伴う切通しで敷地の半分ほどが削られたことを記す。 長崎市の「日見の史蹟」ページ(日見関所跡)には、文久三年に日見峠の八合目に設置され約四年間監視にあたった、明治新道の建設で一部が破壊された、とある。設置期間について現地案内板と市のページで記述が異なる点は本文に記した。 日見が島原領から天領に移った経緯、日本遺産「歴史の道 長崎街道」大型案内板(長崎市教育委員会 令和三年設置、芒塚町)の「江戸期における長崎の関門は日見峠の関所」の記述、日見新道の三十三メートルの切り下げは、国土交通省長崎河川国道事務所の案内などに拠った。この記事の現地写真は未撮影で、木柱の描写は「現在は木柱のみ」の範囲にとどめている。
考察この番所について、二つの資料で設置期間が違っている。現地案内板は文久三年設置、明治二年閉鎖で六年。市の史蹟ページは約四年間。どちらかが閉鎖の年を明治元年、あるいは慶応のうちに見ているのかもしれないが、資料からは確定しない。確定しないものは確定しないまま書いておく。 それより気になるのは、番所の場所である。八合目。頂上ではない。峠を越える者を改めるなら頂上に置きそうなものだが、番所は長崎側の少し下にあった。峠道の勾配と水の便、あるいは既存の茶屋との位置関係で決まったのだろう。理由は資料にない。ただ、八合目に置かれたからこそ、明治の切通しがちょうどそこを通ることになった。
関番所跡の敷地を削った明治新道の切通し
関番所跡の敷地を削った明治新道の切通し
頂上を三十三メートル削る工事は、頂上の少し下まで及ぶ。番所は道の付け替えの線上にあった。 切通しを掘ったのは県と民間の会社だった。通行料を取って建設費を回収する道である。銭を取る道が、人を止める門の跡を通った。幕府の関所は無料で人を改め、明治の道は有料で人を通した。同じ場所で、通ることの意味が逆になっている。 四か所の番所は、幕府が長崎という町をどう見ていたかを示している。日見は街道、西山と浦上は北へ抜ける道、茂木は南の港。陸の四つの口をふさげば、長崎は閉じる。出島で世界に開いていた町が、幕末の数年間だけ、陸側では閉じられていた。 そして、その門を守ったのが幕府の直臣ではなく島原藩士だったことも興味深い。かつてこの土地を領し、乱で失った藩が、二百年以上たって再び日見の防備を担っている。幕府にとっては近隣の藩に任せるのが手っ取り早かったのだろうが、島原の側から見れば、旧領に戻ってきたことになる。 このシリーズで繰り返し書いてきたことだが、日見峠は「見送りの装置」だった。奉行を送り、去来を送り、蛍茶屋で別れの杯を交わした。関番所はその逆で、来る者を止める装置である。同じ峠に、送る仕掛けと止める仕掛けが並んでいた期間は、わずか数年だった。 現地写真はまだ撮っていない。木柱のみ、という資料の一語を、まずは信じておく。
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