不思議帖

怪異と謎のアーカイブ

長崎街道不思議帖

公開 2026年9月30日

日見新道 — 峠を33メートル削った明治の道は「日本初の有料道路」だったのか

明治15年開通の切通しと通行料の記録。案内板が語る「日本初」説と、県庁文書から見直す近年の研究の食い違い

怖さ

峠の頂上へ向かう旧道は、途中から両側を岩壁に挟まれる。露出した岩は金網で覆われ、道端には石臼を積み上げた塔と達磨の石像が置かれている。切通しの底を歩くと、頭上の岩の高さがそのまま、ここで削り取られた土の量になる。

峠を三十三メートル切り下げた明治新道の切通し。両側に岩壁がそそり立つ
峠を三十三メートル切り下げた明治新道の切通し。両側に岩壁がそそり立つ
この峠に道が通ったのは永禄11年(1568)のことで、それ以前、長崎から江戸へ向かう者は港から船に乗った。1650年ごろから街道の整備が進み、日見峠は長崎と小倉を結ぶ57里の長崎街道の、長崎側最初の難所になった。「西の箱根」と呼ばれ、勝海舟が甚だ難所だと書き残した坂である。シーボルトも、象もラクダも、この坂を越えて江戸へ向かった。 明治に入り、人力車や馬車が道の主役になると、徒歩の時代には耐えられた急坂が、長崎の物流をふさぐ壁になった。車輪は坂を嫌う。峠を低くするしかなかった。 明治14年(1881)2月、県令の内海忠勝が地元の有力者と協議し、第十八国立銀行支配人の松田源五郎を発起人総代として日見峠新道会社が設立された。工期はおよそ1年4か月、工費は当時の金で約4万7000円。最大の工事が峠の頂上を110尺、およそ33メートル切り下げる切通しで、これだけで約1年を要した。新道は明治15年(1882)8月に開通する。 費用を回収するため、会社は通行料を取った。人ひとり5厘、人力車2銭、馬車5銭。徴収所は日見側と本河内側の2か所に置かれ、日見側は峠の手前の梨子の木茶屋がその役を担った。
「梨子の木茶屋跡」の石標。日見側の通行料徴収所が置かれた場所
「梨子の木茶屋跡」の石標。日見側の通行料徴収所が置かれた場所
現地には今も「梨子の木茶屋跡」の石標が立つ。徴収は明治17年(1884)から22年(1889)まで続いた。 この道には長く「日本初の有料道路」という肩書きがついてきた。長崎さるくの案内板は「わが国の有料道路の始まりといわれる」と記し、旧日見トンネル脇の案内板も、日本初の有料道路として日見新道が完成したと書いている。 ところが近年、その肩書きに疑問が投げかけられている。長崎県の「旅する長崎学」は、明治期の県庁の行政文書を読み直し、切り下げ工事はもともと県の事業として始まったと指摘する。国からの補助が足りず、県が資金集めのために銀行家たちに会社の設立を頼んだ、という筋書きである。会社は建設主体というより出資を募る仕組みで、通行料は株主への配当の原資だった。明治22年に徴収が終わったのも、県が補償金を払って引き取ったからだという。 「日本初」の根拠は、大正15年に県がまとめた「日見隧道工事概要」にさかのぼる。トンネル完成の節目に書かれた文書が新道の功績を大きく扱い、それが以後の通説になった、というのが近年の見立てである。有料道路そのものは、明治8年(1875)の箱根にすでに例がある。日見新道は明治のインフラ整備事業のひとつであり、日本初ではない。それが今の研究の結論だ。 それでも案内板は書き換えられていない。切通しの岩壁の下で、通説と研究は今も並んで立っている。案内板に添えられた明治期の古写真には、削られたばかりの切通しが白く写っている。長崎大学附属図書館の所蔵だという。 新道が削ったのは土だけではない。峠の関番所跡は切通しに一部がかかり、敷地の半分ほどが失われた。江戸の関門は、明治の道に半分だけ食われて残った。 やがて大正13年(1924)、峠の下でトンネルの工事が始まる。大正15年に完成した日見隧道は全長642メートル、幅7.4メートルで、当時日本最大規模だった。石造の坑口に「日見隧道」の扁額を掲げ、装飾的な付柱と灯籠風の飾りをもつこの坑口は、平成13年度に国の登録有形文化財となった。新道は役目を終え、切通しは歩く人だけの道になった。江戸の峠道は平成8年に建設省の「歴史国道」に選ばれ、平成11年には新しい日見トンネルが開き、車はさらに下を抜けていく。 削られた33メートルぶんの空は、今も切通しの上に開いている。

出どころ長崎市・長崎さるくが設置した現地案内板「日見新道(明治新道)」に拠った。明治期の切通しを写した古写真が添えられ、長崎大学附属図書館所蔵と記される。国土交通省長崎工事事務所が平成14年3月に製作した「日見峠道浪漫」の案内板は、新道が峠を110尺切り下げたと記す。会社設立の経緯と通行料徴収所の位置は国土交通省長崎河川国道事務所のウェブページに、通説への疑義は長崎県の「旅する長崎学」の記事に拠る。旧日見トンネルの諸元は文化庁の登録有形文化財データ(第42-0011号)による。切通しの岩壁、石臼の塔、達磨像、梨子の木茶屋跡の石標は、運営者が2026年8月に現地で確認した。
考察「日本初」という肩書きは、なぜここまで長く生き延びたのか。理由のひとつは、それが土地の誇りとうまく噛み合っていたからだと思う。峠を33メートル削るという大工事は、それだけで語るに値する。そこに「日本初」がつけば、話は一段と据わりがよくなる。案内板を作る側に、あえて疑う理由はなかった。 もうひとつは、根拠となる文書の性格である。大正15年の「日見隧道工事概要」は、トンネル完成の節目に県が自分の事業史をまとめたものだ。
旧日見トンネルの石造りの坑口。扁額に「日見隧道」
旧日見トンネルの石造りの坑口。扁額に「日見隧道」
先行する新道を大きく評価するのは自然な流れで、そこに悪意はない。だが後世はその文書を出発点にし、明治14年当時の行政文書までさかのぼる者が長くいなかった。通説はしばしば、最初に活字になった説明がそのまま引き写されて育つ。 近年の研究が示したのは、日見新道が「民間が起こした日本初の有料道路」ではなく、「県が始め、資金難で民間に頼った公共事業」だったという像である。派手さは減るが、こちらのほうが明治十年代の地方行政の実情に近い。国の補助は足りず、県は銀行家に頭を下げ、通行料で配当を約束した。5厘や2銭という料金表は、旅人から取る料金である前に、株主への返済計画だった。箱根で明治8年に有料の道が開かれていた以上、長崎はそれに続いた側に立つ。だが、追随した事業だったことは、この工事の価値を減らさない。峠を33メートル下げた事実は、通説が崩れても崩れない。 現地に立つと、この落差が具体的に見える。切通しの案内板は今も「わが国の有料道路の始まりといわれる」と記し、その一方で、県の記事はウェブ上でそれを否定している。両方が同時に存在しているのが、2026年の日見峠である。どちらかが消えるまで、この峠は通説と検証の境目に立ち続ける。 削られたものはほかにもある。江戸の関番所は敷地の半分を切通しに取られた。江戸の関門を明治の道が削り、明治の道を大正のトンネルが不要にし、そのトンネルを平成のバイパスが追い越した。このシリーズで繰り返し触れてきたように、日見峠は越える者が何かを落としていく場所である。明治の人々が落としたのは、峠そのものの高さだった。
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