不思議帖

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長崎街道不思議帖

公開 2026年9月30日

渡鳥塚 — 師と弟子、二つの句を並べた碑

蛍茶屋と日見峠のあいだの墓地に立つ句碑。芭蕉と去来、師弟の句を一つの石に並べた長崎で唯一の碑。

怖さ

蛍茶屋から旧長崎街道を日見峠へ向かって登り、本河内の町なかに入ると、道沿いに馬町墓地がある。

本河内町の馬町墓地に立つ渡鳥塚(右端の自然石)
本河内町の馬町墓地に立つ渡鳥塚(右端の自然石)
墓地の中に、自然石の碑が一つ立つ。周りには南無阿弥陀仏と刻んだ石塔や地蔵が並び、少し離れて御影石の道標が「長崎街道」と示している。碑の名は渡鳥塚(わたりどりづか)。市指定の有形文化財である。 一の瀬口から歩けば、ここは日見峠までの道のりの途中にあたる。街道歩きの案内図によれば、一の瀬口から峠まで徒歩でおよそ一時間。旅人はまだ息の上がらないうちに、この墓地の前を通り過ぎた。江戸のころ、長崎を発つ人はその手前の蛍茶屋で別れの杯を交わし、この道を峠へ向かった。渡鳥塚は、その見送りの道の途中に立っている。 碑には二つの句が刻まれている。表は松尾芭蕉。目にかかる雲を、しばしのあいだ渡り鳥が横切っていく、という趣旨の句だ。右面は向井去来。落柿舎の名で刻まれ、故郷ももはや仮の宿にすぎない、と渡り鳥に自らを重ねた句である。師と弟子、二人の句が一つの石に並ぶ。 裏面には建立の経緯が記されている。文化十年(一八一三)夏、水無月。芭蕉の徒弟たちが心を合わせて建てた、と祥禾という人物が記す。この年は芭蕉の百二十年忌、そして去来の百十年忌に当たっていた。 去来は慶安四年(一六五一)、長崎の後興善町の生まれである。八歳で京都に移り、三十代半ばで芭蕉の門に入って蕉門十哲の一人となった。元禄二年(一六八九)には一時帰郷し、長崎に蕉風俳諧を伝えている。その俳統は長崎で世代を重ね、幕末まで途切れなかった。去来の没年は宝永元年(一七〇四)。渡鳥塚が建った文化十年は、去来が長崎を去ってから百二十年あまり後のことになる。建立者の平田祥禾は長崎北馬町に住む俳人で、忌年に合わせてこの墓地に師の句碑を建てた。二つの句はもともと、宝永元年刊の『渡鳥集』に収められたものである。去来と従弟の卯七が共に撰んだ集で、碑の名はここに由来する。説明板の刊年表記は一七〇三年となっている。 長崎市教育委員会の説明板によれば、芭蕉の句は建立当時のベストセラー『芭蕉句選拾遺』に収められていた。長崎には芭蕉の句塚が数基あるが、師と弟子の句を並べた碑はほかになく、文学的な価値が大きいとする。碑の名も「芭蕉塚」ではなく「渡鳥塚」である。師の名ではなく、二人の句に共通する渡り鳥を碑の名にした。 碑は一度動いている。国道の拡張工事で墓地の敷地が狭められ、平成九年十一月、馬町自治会長の寺田大作氏の肝煎りでわずかに位置を移して再建された。同じ月、長崎俳人会が説明板を立てている。市の指定は翌平成十年四月三十日。移設から半年後のことだった。平成二十九年には市教育委員会の説明板も加わった。所在地は長崎市本河内一丁目十九、所有者は馬町財産区で、道標の側面には「馬町 所有地」らしき文字が読める。 碑の前に立つと、街道は峠へ向かって坂を上っていく。芭蕉は雲を横切る渡り鳥を見た。去来は自分を渡り鳥に見立てた。長崎の弟子筋は、二人の句を一つの石に刻んで、峠を越える旅人の目に触れる道沿いに置いた。二百年のあいだに国道が広がり、碑は少し動いた。それでも渡り鳥の句は、いまも街道に向いている。

出どころ長崎市本河内一丁目十九、馬町墓地内の市指定有形文化財「渡鳥塚(句碑)」の現地説明板二枚に拠った。一枚は長崎俳人会が平成九年十一月吉日に立てたもの。もう一枚は長崎市教育委員会が平成二十九年に設置したもので、句の出典、建立者、文学的価値についての記述はこちらに基づく。碑の表・右面・裏面の刻字の趣旨、移設の経緯も両説明板による。長崎市文化財課のページと、ナガジンの本河内特集で内容を照合した。碑の周囲の石塔や地蔵、御影石の道標の刻字は、二〇二六年八月に運営者が現地で確認した。なお、芒塚句碑(芒塚町・天明四年建立)を「芭蕉百二十回忌・去来百十回忌に建立」とする記述が一部のサイトにあるが、それは本碑の建立事情であり、二つの碑は別のものである。
考察芒塚の碑と渡鳥塚の碑は、対で読むと分かりやすい。 芒塚の句は、去来が長崎を去る瞬間に、見送りの人々へ向けて詠んだものだ。元禄二年(一六八九)の別れそのものが刻まれている。碑が建ったのは天明四年(一七八四)、去来の死から八十年後。一方の渡鳥塚は文化十年(一八一三)、去来の死から百十年後の建立で、刻まれているのは別れの場面ではなく、師と弟子の「渡り鳥」の句である。芒塚が別れの瞬間を留めた碑なら、渡鳥塚は、別れから百年以上たった弟子筋が師を偲んだ碑である。 なぜ渡り鳥だったのか。去来の句は、故郷ももはや仮の宿だ、と詠む。八歳で長崎を離れ、京都で生き、一時帰郷して再び去った人の句である。長崎の俳人たちにとって、去来は長崎から飛び立って蕉門に入り、俳諧を持ち帰って、また去っていった渡り鳥だった。芭蕉の句の渡り鳥が、雲の向こうへ消えていくのと重なる。二人の句を並べることで、碑は師弟の系譜を一本の線として示している。 その線の先に自分たちを連ねる、というのが祥禾たちの意図だったのだろう。裏面には「芭蕉の徒弟が心を合わせて建てた」とある。去来の弟子ではなく、芭蕉の徒弟と書いた。芒塚の碑の裏に「崎陽蕉門末流」とあるのと同じで、長崎の俳人たちは去来を経由して芭蕉に連なる自分たちを、繰り返し石に刻んでいる。 場所も意味を持つ。馬町墓地は蛍茶屋と日見峠のあいだ、旧街道沿いにある。蛍茶屋は別れの杯を交わす場所で、日見峠は長崎を出る最初の難所だ。その中間の墓地に、渡り鳥の碑がある。去っていく者の道筋に、去っていった師の句を置いた。 市教委の説明板は、師弟の句を並べた碑はほかにないと書く。長崎に芭蕉の句塚が数基あるなかで、この碑だけが去来を隣に置いた。それは、長崎の人々が芭蕉を敬うとき、必ず去来を通して敬ったということでもある。 平成九年、国道の拡張で碑はわずかに動いた。動かしたのは自治会長で、所有は馬町財産区。二百年前に俳人たちが建てた碑を、いまは町内が守っている。渡り鳥は季節がめぐれば帰ってくる。碑は、帰ってくるものを待つ側の記録である。
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