不思議帖

怪異と謎のアーカイブ

長崎街道不思議帖

公開 2026年8月17日/更新 2026年9月30日

長崎・日見峠

長崎街道最後の難所。奪われた路銀と、若者が遺した呪いの話。

怖さ

江戸時代、長崎街道をたどって長崎の町へ入るには、日見峠を越えねばならなかった。

日見峠の頂上から東を望む。眼下に長崎自動車道、その先に日見の町
日見峠の頂上から東を望む。眼下に長崎自動車道、その先に日見の町
街道一の急坂で、「西の箱根」と恐れられた最後の難所である。後年ここを越えた勝海舟は、甚だ難所だと書き残している。 峠には、旅人相手の茶屋が数軒あったと記録に残る。
本河内三丁目に残る「日見峠 新茶屋之跡」の碑。石臼二つと石の水槽が並ぶ
本河内三丁目に残る「日見峠 新茶屋之跡」の碑。石臼二つと石の水槽が並ぶ
急坂を登り切ったところで、旅人はまず休む。汗を拭き、茶を飲み、荷を下ろす。峠の茶屋とは、そういう場所である。 そして、そこで初めて財布を開く。 当時の長崎は、学問の都だった。 鎖国の世にあって、西洋の知識が入ってくる窓は出島ただ一つだった。オランダ通詞がおり、蘭方医がおり、天文や測量を教える者がいた。全国の若者にとって、長崎は行くべき場所だったのである。 だが遠い。江戸からなら数十日。九州の内陸からでも、山をいくつも越えねばならない。旅費は、当時の感覚でいえば家一軒に届くこともあった。 蘭学を、医学を、天文を志す若者たちが、全国からこの峠を越えていった。中には、村じゅうが銭を出し合って送り出した者も少なくない。学ばせて、戻ってきてもらう。村にとっては、それが投資であり、希望だった。 ある年、そんな一人が峠へ差しかかった。 懐には、村の全財産にも等しい路銀がある。日はとうに落ち、宿場までは遠い。 途方に暮れた目に、峠道の脇でぽつりと灯る一軒の店が映った。酒まんじゅう屋である。 ——今夜ひと晩、軒先だけでも貸してはもらえまいか。 亭主は快く招き入れた。湯を沸かし、まんじゅうまで振る舞ってくれたという。 翌朝、若者は厠で用を足し、丁重に礼を述べて峠を下った。 だが、しばらく行ったところで血の気が引いた。 金を包んだ袋を、厠に置き忘れている。 息を切らして駆け戻り、事情を話した。亭主は目も合わせずに言った。 ——そんなものは見ておらん。 証明する手立ては何もなかった。厠に置き忘れたと言い張ったところで、見た者はいない。届け出るあてもない。旅の若者と、土地の商人。どちらの言い分が通るかは、聞くまでもなかった。 若者にはわかっていた。それが嘘であることも、もう二度と金は戻らぬことも。 村人たちの顔が浮かぶ。学問も、故郷も、面目も、すべて失った。 その夜、若者は峠で自ら命を絶った。息絶える前、酒まんじゅう屋の屋号を幾度も唱えたと伝わる。 それからだった。 あの店には、不幸ばかりが続いた。病、怪我、崖からの転落。代が替わっても凶事は止まず、やがて店は峠から姿を消した。 何代のあいだ続いたのか、いつ店を畳んだのか、正確なところは伝わっていない。ただ、峠を行き来する人々のあいだで、あの店には近づくなという言い方が長く残った。 今、その場所を示すものは何も残っていない。 峠の道筋も、その後何度か付け替えられた。明治になって新しい道が開かれ、やがてトンネルが掘られ、いまでは車が下を抜けていく。旧道はハイキングコースとして残るのみである。
峠の頂上を貫く切通しの旧道
峠の頂上を貫く切通しの旧道
店があったという場所も、正確には誰も指せない。ただ「このあたりだった」と言われるだけだ。 ただ、夜の峠道で、どこからともなく甘い蒸し物の匂いを嗅いだ、と言う者がいる。

出どころ長崎県長崎市・日見峠に伝わる土地の口伝。文献よりも、地元で語り継がれてきた話として残る。腹切坂の由来については、日見腹切坂史跡保存会が現地に建てた案内板に拠った。
考察この話が土地に根づいたのは、「峠」という場所の性質によるところが大きい。往来の多い難所は、旅人が大金を持ち、しかも人目が途切れる場所である。金銭をめぐる不幸が実際に起こりやすい地点で、村を代表して送り出された若者という悲劇性が加わり、長く語られる話になったのだろう。 長崎街道は砂糖の通り道でもあった。
芒塚町に立つ日本遺産「歴史の道 長崎街道」の案内板。下段はシュガーロードの解説
芒塚町に立つ日本遺産「歴史の道 長崎街道」の案内板。下段はシュガーロードの解説
出島に陸揚げされた砂糖がこの街道を通って小倉へ運ばれ、沿道に菓子の文化が根づいた。シュガーロードと呼ばれるゆえんで、峠に酒まんじゅう屋があったという設定には現実味がある。 代々続く不運を先祖の不義に結びつける因果応報の型は、日本の伝承にきわめて多い。悪事の報いをその場で見ることはめったにないから、物語は報いを子や孫の代に置く。人を裏切ってはならぬという戒めを恐怖の器に入れて次の世代へ渡す装置である。しかもこの話には、裏切られた若者の名前がない。伝わっているのは店に不幸が続いたことだけで、語り継いだのはおそらく亭主の側の土地の人々だった。自分たちに都合の悪い話を消さずに残した、この土地の律儀さのようなものを感じる。 この峠で語られる怪異は、それだけではない。 峠へ向かう道の途中に腹切坂がある。
腹切坂の三基の石碑。右端に「長崎街道 日見 腹切坂」の石標
腹切坂の三基の石碑。右端に「長崎街道 日見 腹切坂」の石標
熊本・細川家の家臣が長崎からの帰路、土地の「つづれ組」に一手の試合を申し込み、元武士で当時は町人の作右衛門の棒術に敗れた。無念やる方なく、宿場を見下ろす坂の上で腹を切って果て、村人が丁重に葬った。三基の石碑は日見バイパス建設のため平成十四年に旧長崎街道の日見宿町から現在地へ移されている。
日見腹切坂史跡保存会の案内板と、「建設省の了解を得て長崎街道より此の地に移設する」の標柱
日見腹切坂史跡保存会の案内板と、「建設省の了解を得て長崎街道より此の地に移設する」の標柱
面目のために腹を切った武士と、金のために客を裏切った亭主。峠は、越えようとする者の内側をそのまま外に出してしまう場所なのかもしれない。 峠を貫く旧日見トンネル(日見隧道)は、大正十三年に着工し二年で開通した全長約六百四十メートルの隧道で、平成十三年に国の登録有形文化財となった。
旧日見トンネルの石造りの坑口。扁額に「日見隧道」
旧日見トンネルの石造りの坑口。扁額に「日見隧道」
ここには「バイクで通ってはならない」という禁忌がある。単車の事故で女性が体を上下に分かれる形で亡くなったといい、以来、二輪で抜けると上半身だけの女性が追ってくる、後ろの座席に乗ってくると囁かれる。大正の難工事の犠牲者の霊だとする説もある。平成十一年に新トンネルが開通して旧道の車は減り、峠道沿いの廃屋も拡張工事で更地になった。腹を切った武士、路銀を失った若者、トンネルの女、消えた廃屋。天正年間の日見峠の戦いの戦死者を合祀した祠まで含めて、同じ峠に時代の違う死が地層のように積み重なっている。 怪異のほかにも、街道の時代の記憶が案内板に残っている。日見の地名は、八朔に峠で日の出を拝んだ「日を見る峠」説と、天正六年の戦いで深堀勢が火を焚いて大軍を装った「火を見る峠」説の二つが伝わる。
峠の頂上に立つ木標「長崎街道 日見峠」
峠の頂上に立つ木標「長崎街道 日見峠」
長崎奉行の送迎はこの峠まで出るのが慣例だった。峠には茶屋が四軒あり、文政九年に越えたシーボルトは『江戸参府紀行』に山頂の一軒を書き残している。
「日見峠 新茶屋之跡」の碑
「日見峠 新茶屋之跡」の碑
頂上には幕末の関番所跡もあり、桜田門外の変のあと幕府が長崎の出入口四か所に置いたもので、島原藩士らが守ったが明治二年に閉鎖された。その跡地を削ったのが明治十五年開通の日見新道で、峠を三十三メートル切り下げ、人ひとり五厘の通行料を取った。
峠を三十三メートル切り下げた明治新道の切通し。両側に岩壁がそそり立つ
峠を三十三メートル切り下げた明治新道の切通し。両側に岩壁がそそり立つ
「日本初の有料道路」と看板にあるが、近年の研究ではこの通説は否定的で、日本初は明治八年の箱根とされる。
「梨子の木茶屋跡」の石標。日見側の通行料徴収所が置かれた場所
「梨子の木茶屋跡」の石標。日見側の通行料徴収所が置かれた場所
峠の東の芒塚町には、長崎生まれの俳人・向井去来が故郷を去る日に見送りの人々へ詠んだ「君が手もまじるなるべし花薄」の句碑があり、この句が町の名になった。
芒塚町の街道筋に残る常夜燈。竿に「奉献」の文字が読める
芒塚町の街道筋に残る常夜燈。竿に「奉献」の文字が読める
芒塚句碑(三基)。中央が去来の句碑、左が漢詩碑、右が献句碑
芒塚句碑(三基)。中央が去来の句碑、左が漢詩碑、右が献句碑
西側の本河内町には芭蕉と去来の渡り鳥の句を刻んだ渡鳥塚、岩這薬師堂には頬に手を当てた姿を歯痛と見立てた歯痛観音がある。
薬師堂のそば、岩をくり抜いた水溜めに湧き水が溜まる
薬師堂のそば、岩をくり抜いた水溜めに湧き水が溜まる
岩這薬師堂の歯痛観音。岩窟の中で右手を頬に当てている
岩這薬師堂の歯痛観音。岩窟の中で右手を頬に当てている
本河内町の馬町墓地に立つ渡鳥塚(右端の自然石)
本河内町の馬町墓地に立つ渡鳥塚(右端の自然石)
そして街道の起点・一の瀬口には、旅立つ者と別れの杯を交わした蛍茶屋があった。
一の瀬橋。承応二年に唐通事・陳道隆が私財で架けた石橋
一の瀬橋。承応二年に唐通事・陳道隆が私財で架けた石橋
一の瀬口の「史跡 一の瀬口 蛍茶屋跡」の石標と碑
一の瀬口の「史跡 一の瀬口 蛍茶屋跡」の石標と碑
いまは路面電車の終点にその名が残るだけで、茶屋も蛍もない。
本河内の溜池。一の瀬口から先の旧街道はこの水の下に沈んだ
本河内の溜池。一の瀬口から先の旧街道はこの水の下に沈んだ
「蛍茶屋」行きの路面電車。名前だけが行き先表示に残る
「蛍茶屋」行きの路面電車。名前だけが行き先表示に残る
日見峠と一の瀬口は、長崎という町の「見送りの装置」だった。そして峠を越える者は必ず何かを落としていく。去来は別れを、若者は路銀を、細川家の家臣は面目と命を、明治の人々は峠そのものを三十三メートル削り落とし、大正のトンネルでは女がひとり落ちた。 現在の日見峠は歴史国道として整備され、長崎の町を見下ろす気持ちのよい山道になっている。訪ねてみると、拍子抜けするほど明るい道である。木漏れ日が落ち、鳥が鳴き、遠くに海と町が見える。呪いの話があるとは、とても思えない。だが、この明るさこそが峠の正体でもある。昼は誰でも越えられ、夜は誰も助けに来ない。昔の旅人が恐れたのは、峠そのものではなく、日が落ちることだった。
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